先生

中学生の頃12歳年上の音楽の先生に恋をしていた。

いつから好きだったのかは、もう覚えていない。でもきっと、セーラー服を着ていた3年間、わたしの視線の先にはいつも先生がいたのだと思う。
 
先生に見て欲しくて、頑張った。
音楽も、勉強も。
 
それでも先生は先生だったからわたしをみんなと同じように扱った。
わたしがどんなにたくさん練習しても、勉強しても、他の頑張ってる子と同じようにわたしを褒めた。特別なんて一度もなかった。
 
憧れて、追いかけて、必死に気を引いたのに、みんなと同じでしかいられなかった。
 
けれど、先生がわたしを他の子と違うように扱ってくれたことが1度だけあった。
 
吹奏楽部の定期演奏会の前日だった。
「わたし、明日の定演でこれ歌いたくて。
あなたなら前日に弾けると思ったの。
あなたに弾いて欲しいの。」
オンブラマイフの楽譜を持って。
「急なお願いでごめんなさい」
走り書きのメモと、コピーの楽譜。
オペラのアリアの伴奏なんてしたことなかったのに、先生はわたしに「弾いて」と言った。
 
 
合わせは当日の朝だけ。
みんなが登校する前の早い時間にテンポとブレスの確認をして、「そんなテンポじゃわたし息持たないよ!」って笑われたのを、いまでも鮮明に覚えてる。
それが、中学2年の終わり。春の始まりのこと。
 
それから1年後、セーラー服で迎える、3度目の春の始まり。
高校受験の合格発表の日、先生と同じ制服を着られることが決まった。「先生が通っていた高校に春から通うんだよ!わたしも先生みたいな先生になるね!」って、笑った。
音楽の先生になりたくて、先生みたいになりたくて、
 
 
高校に入ってからも音楽の先生になりたいと思い続けて
音大志望者に混じって楽典も聴音もやった。
ピアノの先生も変えた。
イタリア歌曲やコンコーネの練習をした。
毎日毎日楽譜ばかり読んでいた。
でもある時、あぁわたしは教師にはなれても
「先生」にはなれないんだ、と思った。
 
もうやめよう、と思った。
 
 
ピアノのレッスンに通うのをやめた。
音楽の授業をサボるようになった。
そのくせ、数学の授業をサボって
器楽室でオンブラマイフを歌ったりも、した。
 
なんのキッカケもなしに、失恋した。
先生が結婚してから三年経って、
漸く失恋できた。
高校3年の夏だった。

02

パソコンのディスプレイを眺めながらマウスをひたすらスクロールして、悠に1時間は経っただろう。さっきからずっと、ワードの画面が上下に流れるだけでちっとも文字は増えていかない。あぁ、もう無理なんだなあと思う。わたしにはもう書けないんだ。
 椅子の上で伸びをすると、背もたれがミシッと音を立てた。たった4年しか使ってない椅子なのに、いつのまにこんなにくたびれたんだろう。煙草をくわえて火をつける。東京に来たころは待ち受ける4年という時間を果てしのないものに感じていたのに、その4年が終わろうとして振り返ると、案外歩いてきた道は短かったりする。残っている足跡だって申し訳程度にいくつかの思い出を残しているだけで、深くて濃い思い出なんてひとつも残っていなかった。
 手元の空き缶に灰を落としながら、もう一度パソコンにディスプレイに視線を戻す。「どうやったって、あの人は戻ってこない」。半年前のこの一節から、小説は一向にゴールに向かわない。向かう先が見つからないままふわふわ漂って、それでも手放せずに一本の糸で繋がった凧みたいだった。この小説を書き始めた頃わたしは20歳で、自分の中だけに留めておけない苦さや痛みをたくさん抱えていた。「失恋」というわかりやすい理由から生まれてくる苦さや痛みが文字になって、20歳のわたしを支えていた、のだと思う。22歳、就職を目前にした今、あのころの気持ちはわたしのなかに残っていない。感傷的な夜を過ごすこともなくなったし、スピード感やとげのある感情を文字に起こすエネルギーもなくなった。それはきっとわたしがあの人のことを考えなくなったわけじゃなく、20歳の時にわたしのなかにあった思春期の名残みたいなものが時間とともに薄れていっただけなのだろう。
「ただいまぁ」
声がして、わたしは慌てて煙草をもみ消してノートパソコンを閉じた。
「おかえりぃ」
玄関まで迎えに出ると、煙草と香水の混じった俊の香りがしてほっとした。さっきまでわたしの頭にちらついていた「あの人」が消えていく。
「ぴよ、今日のごはんなに?」
俊はわたしのことをひより、と名前で呼ばない。付き合い始めた頃からずっと「ぴよ」。ひよこみたいなその響きをわたしは気に入っている。
「本日の夕食は、俊ちゃんの大好きな親子丼です。」
「おー、やった、久しぶりじゃない?親子丼。」
「でもあいにく冷蔵庫に鶏肉がご不在でしたので、代替品として豚肉を使っております。」
「なんだよ、それ親子丼じゃなくて他人丼じゃねえか!」
ネクタイを緩めながら俊が笑った。その顔を見たら、わたしの心に中にわだかまっていたものもするすると緩んでいった。
わたしが俊の家に転がり込むようになって半年が経つ。大学近くのアパートはそのままに、着替えとノートパソコンだけを持ち込んで、気づけば毎日この家に帰ってくるようになっていた。28歳、大手の広告関係の企業につとめる俊は、料理も洗濯もする175センチのイケメンだ。笑うと下がる目じり。行きたいと言えばどこへでも連れて行ってくれるところ。一緒になって洋服を選んでくれるところ。見た目や収入のスペックよりも、俊から滲み出る優しさが大好きだった。抱きしめると良いにおいがして、陽だまりの中にいるみたいな気分になった。周りから見たらわたしは間違いなく「幸せ」だったし、わたし自身、わたしを幸せな人間だと思っている。
それなのに。
どうしてだろう。2年前から毎日のように、あの人はわたしの心の中に現れる。一緒に行った場所を通るたび、一緒に食べたものを食べるたび、あの人がわたしの中にちらつく。俊の腕の中であの人のことを考える夜も、ある。
おそろいの箸を並べながら、俊がわたしに問いかけた。
「ぴよ、自分家帰るのって今日だったよね?」
おそろいのマグカップを並べながら、わたしは俊に応える。
「うん。ご飯食べたら帰るよ。」
自称のんびり屋なわたしは、卒業論文の執筆ものんびりしすぎて、教授から呼び出しを食らっていた。周りが計画表通りに執筆を進めて定期的に先生に提出しているのを尻目に、わたしは計画表から3週分遅れて執筆を進めている。今夜は自分のアパートに帰って血眼で執筆を進めて、午後4時までにある程度の形を作ってから教授のもとに行かなければならない。
「駅まで送るよ。」
「ううん、大丈夫。ひとりで帰れる。」
「え、でも……」
「大丈夫だよ、子どもじゃないんだから!」
こういう優しさが好きだなぁ、としみじみ思う。いつだってわたしのことを心配して、わたしの手を取って先を歩いてくれる俊。俊の隣にいたら、どんなことでも乗り越えていける気がしてくるくらいには俊はわたしにとって大切な存在になっていた。

 大学近くの自分のアパートにつくころ、時計の針は10時を指していた。執筆に必要な資料は集めてある。書籍と論文からいくつか引用をして、自分のデータと照らし合わせて、出典を書いて……考えながら、2年の頃に使っていたテキストを開く。あの頃いつも隣に座っていた友達の落書きや、「お昼どこで食べる?」なんて筆談がところどころに散らばっていて、ふっと頬が緩んだ。すると、ページの間からするりと一片の紙が落ちた。それはわたしがソフトクリームをなめながら笑う、なんとも間抜けな写真だった。
「うわ、若っ!」
思わず声になるほど、写真の中の私は若々しかった。頬は10代特有のムチムチ加減で、いかにも女子大生らしい茶色でパーマのかかった髪。たった3年前の写真が目に入って最初に感じるのが「若さ」だなんて嫌だなあと苦笑しながら裏返すと、乱雑に書かれた文字が目に留まった。
思わず、ギュッと目をつぶる。見ちゃダメだよと心が言うのに、少しずつ目を開けた。つるの恩返しのおじいさんとおばあさんって、きっとこんな気持ちだったんだろうなあなんてくだらないことを考えながら。
『ひより、ありがとね』
懐かしさに襲われて、胸がギュッとした。それは紛れもなく、あの人の字だった。2年前のテキスト。3年前の写真。別れ際にセンチメンタルになった彼が目に付いた本の間に挟んだのであろう、最後のメッセージ。そして、ドラマのワンシーンみたいなそのベタな設定に胸を熱くしているわたし。馬鹿馬鹿しくてたまらなくなって、キッチンのシンクの中でその写真に火をつけた。おいおい、最後の手紙に火をつけるって、ドラマのワンシーンに拍車かけてるじゃん、わたし。
写真に火をつけたついでに、煙草にも火をつけた。あの人と一緒にいるときには決して吸わなかった煙草を、今のわたしは当たり前のように咥えるようになった。あの人といたのは、2年も前の話だ。
この2年の間にいろんなことがあった。あの人と別れた後、泣いたりわめいたりして、自分の中にある感傷を全部文字にしたりして、主人公に自分の影を落としたりして、毎日あの人のことを考えたりして……。
 煙草の火が唇に限りなく近くなったくらいのところで、胃液がぐっと上がってくる感じがした。あ、やばい。トイレに駆け込んで便器に顔を突っ込んだ。さっきまでどんぶりの中で親子面をして並んでいた「他人」が、便器の中でバラバラになっていく。
 どんなに愛していたって、どんなに一緒にいたって、所詮は他人なんだよな、と思う。さよならの言葉ひとつで、友達や恋人はいつだって他人になれる。他人からもらう「ありがとね」は、わたしの心になんのプラスも生まない。ありがとねって、なんだよ。そんな言葉で終わらせたつもりだったのか。わたしが何年もかかって消した気持ちを、あんたはたったそれだけの言葉で無くすことができたのか。それならもう、結末なんて最初からわかってたのかもしれないね。狭いトイレの中で、涙がじわっと滲んだ。
 最低限必要な資料を選定してから、それを抱えて家を飛び出した。俊の家に帰る電車は、まだある。

俊のアパートの最寄駅に着くと、駅から直結の24時間営業のスーパーに立ち寄った。コカコーラ、ガリガリ君ブルガリアヨーグルト、パイナップル……俊とわたしの好きなものを両手に抱えて俊の家まで走った。
俊の部屋の電気は消えていた。時刻は0時を少し過ぎたところ。いつもの俊なら眠っている時間だ。静かにドアを開けてキッチンに立つ。鶏肉。玉ねぎ。かつおだし。砂糖。しょうゆ。最後に、卵。手慣れた手つきで調味料と食材を組み合わせて煮立たせていく。
ねえ俊ちゃん、こんなに一緒にいるのにわたしたちも他人なのかな。いつかはさよならして、道ですれ違っても知らん顔するような他人になっちゃうのかな。ねえ俊ちゃん、わたし俊ちゃんと付き合わなかったら親子丼なんて作れなかったよ。ねえ俊ちゃん、明日起こすのもいつもと同じ時間でいい?ねえ俊ちゃん、ねえ俊ちゃん、俊ちゃん……。
卵が固まり切らない絶妙なタイミングで、具材をどんぶりに移した。急いで寝室に入り、俊の肩を揺さぶる。
「俊ちゃん、朝ですよー!今日の朝ご飯は、親子丼ですよー!」
深夜0時半の朝ご飯。晩御飯を食べてから4時間半。俊は、んーと唸りながら起き上がってわたしを見た。
「どうした?」
「ねえ俊ちゃん」
「んー?」
「好きだよ」
俊の目の前にどんぶりを突き出した。わけがわからないという顔のまま俊は笑った。俊の顔を見て、わたしも笑った。
2人で並んで親子丼を食べる。ねえ俊ちゃん、他人丼じゃなくて、今度はちゃんと親子丼だよ。ねえ俊ちゃん、おいしい?ねえ、俊ちゃん。心の中で何度も俊の名前を呼びながら黙々と親子丼を口に運んだ。
明日必ず、あの小説を書き上げよう。半年前から戻ってこないあの人を待ち続けている主人公を、解放してあげなくちゃいけない。
「大丈夫だよ。」
ふいに俊が言った。
わたしは俊のほうを見ないけれど、俊がまっすぐにわたしを見つめていることは雰囲気でなんとなくわかった。
「うん。」
わたしは手を止めることなくぶっきらぼうに答える。
「なんかわかんないけど、大丈夫だから。」
「うん。」
「ぴよ、大丈夫だよ。」
「うん。」
親子丼を食べながら、次から次に涙がこぼれる。ちっとも悲しくなんてないのに。泣きながら食べる親子丼は、ちょっとだけしょっぱい。慌てて作って分量を間違えたのか、自分の涙のしょっぱさなのか、まだ幼いひよこのぴよにはわからなかった。

01

 サヨナラの覚悟はできていた。

 背中のリュックサックの中には、わたしの狭いワンルームに散らかしてあった彼との思い出を全部詰め込んである。彼がパジャマにしていたダサいキャラクターもののスウェットや、おそろいのスリッパや、使っていたワックス。捨ててしまうのは悔しい気がして、いや、違う、それらをゴミ箱に放り込んでたったひとりで「ふたりの」日々を終わらせることができなくて、持ち主の元に返しに行く。

 右肘の傷はまだ痛む。一週間前、キッチンで最後の大喧嘩をしたときの傷だ。カッとなった彼が手元にあったグラスをわたしに向かって投げつけ、割れた破片が肘をかすめたのだ。鮮血を見た途端彼は顔面蒼白になってわたしを抱きしめ、ごめんと繰り返した。

 彼の「ごめん」が、わたしにとっての「愛してる」に変わったのはもう随分前のことだ。殴られても蹴られても、彼がわたしの目を見て本当に申し訳なさそうに「ごめん」とつぶやくと、本当は愛しているんだよと言われているような気になって、わたしは何も言えなくなった。わたしはいつだって良い女で居たかった。ごめんと謝られてそれを赦せないような、小さな女になりたくなかったのだ。

 いいところだっていっぱいあるんだよ。この3年間、この言葉を何度つぶやいたかわからない。脚のあざに湿布を張りながら、腕の傷に包帯を巻きながら、わたしはこの言葉を頼りに生きてきた。けれど物語が終わりに向かう電車の中で彼の「いいところ」を思い出そうとしても、思い浮かぶのは彼の困ったようなごめんの顔だけだった。

 コートの左ポケットには、彼がわたしにくれたサバイバルナイフが入っている。「理沙は可愛いから、夜ひとりで歩くときはこれを持たなくちゃダメだよ」。そんな言葉とともにそれを渡されたとき、彼からの愛とほんの少しの狂気を感じた。あのときに気付けたら、わたしはこんなに傷つかなくても済んだのかもしれない。もっとまっすぐに人を愛せたのかもしれない。自分の足で自分の人生を歩いて行けたのかもしれない。後悔はいくつもある。そんな後悔をいまここで断ち切るために、わたしはサヨナラを言いに行くのだ。彼からもらった愛と狂気を返すために、電車に乗ったのだ。

 電車を降りてホームの階段を上がると、改札の向こうに彼の顔が見えた。わたしが愛していた人の顔だ。愛していたなのか、愛しているなのか、もうはっきりとはわからない。とにかく、わたしと「ふたりの」日々を重ねてきた彼が、まっすぐにわたしを見つめている。

 もう一生会うことはないだろう。東京の外れのこんな小さな駅に降り立つことも、きっとない。最後に一度だけ彼を抱きしめたいと思った。歪んだ毎日に変わってしまう前の温かくて柔らかなわたしたちを思い出したいと、強く思った。

 改札にICカードをタッチして、彼とお互いに歩み寄る。ありがとね。さようなら。愛してるよ。言いたいことはたくさんあった。でも口にしたら全部薄っぺらくなる気がして言えなかった。嘘じゃない、わたしは最後までいい女で居たかったのだ。居たかったはずなのだ。だから微笑んだのだ。計算外だったのは、微笑みながら左手を振り翳してしまったことだけだった。